今日書く内容はある意味個人批判です。
読む人が見たらだれのことを言っているのかよくわかるような内容になっています。
そういう記事が好きではない人は回れ右、していただければ。
個人的にブログを始めたときに、人気が出なくてもいいからゲーム開発においては正しい情報を伝えようと思いました。
そのためには必要なことなので…。
■考えがかみ合わないことに関して
某所で考えがかみ合わない人の話題が出ていました。
・感覚的にゲーム開発を進める人がいる
・自分は論理的に進めるほうなので話が合わなくて困る
というような内容でした。
まあ現場ではよく聞く話ではあるのですが、感覚的に物事を進める人は周りを振り回し勝ちというようなことまで書いていて、もう害悪だなと思ってこの記事を書いています。
なんで害悪だという所の話を書いていきます。
■大切なのはユーザーの評価が得られること
エンタメにおいて大切なのは作業の進め方ではなくユーザーからの評価です。
感覚的に進めようが論理的に進めようが、ユーザーの評価を得られている人が正解でそうでない人は不正解です。
それ以上の正解はないですよね?
私は現場に二十年以上いますが、どっちのタイプでもヒットメーカーはいます。
なので感覚的、論理的という部分に注目しても意味がないんですよ。
論理的に正しい開発をしていてもヒットしないゲームしか作れなかったら、そっちの方が人を振り回していません?
■開発のあるべき姿
結果的にすごい売れて評価されたゲーム制作に参加していたことがあります。
詳細は濁しますがシリーズの何作目かで、1個それまでになかった要素が追加されることになっていました。
もうね、入れたいと言っているディレクター以外はみんな反対な仕様。
無駄にしか思えないし、作るのもプレイするのもめんどくさい。
それでもディレクターがどうしてもということで入れることになりました。
すごいなと思ったのはUIの作成者。
その人も当然反対だったんだけど、こんな面倒な仕様を入れるのであればUIくらいは操作性が良くないといけないからと芸術的に操作しやすいUIをくみ上げてくれました。
こうやって相手のことを理解していなくてもよい結果を出すのがプロなんですよ。
そしてまた違う別のすごいなと思う話があります。
ゲームが出た後その仕様に関しては賛否両論というか、否のほうがほとんど、
「めんどくさい」、「なんでこんなんいれたんだ」という声ばかり。
結果そのシリーズでもその仕様が採用されたのは1作だけになります。
ああ失敗だったんだって思うじゃないですか。
でも発売何年もたってプレイしたユーザーに言われることは、「ああ○○(不評だった仕様)というのが入っていたやつだよね」という話ばかり。
結果的に見ると印象に残っていたのはその不評だった仕様の方で、今となってはその仕様がなかったら特徴が薄い作品になっていたなと思います。
ああ、ディレクターはここまで見越していたのかと。今行われた選択が正しいかどうかなんて何年もの単位で見ていかないと分からないものなんですよ。
その人は今でも大活躍しています。
■ハーモニーは合わせに行ってはだめ
ちょっと話が変わって友人の結婚式に出たことがあります。
その時の余興で私の共通の友人がデュエットで思い出の曲を送りました。
それなりにギターも歌もうまい二人だったんですよ。
でもその後に出てきた人たちがもっとすごくて、何十年もコーラスバンドを組んでいて地元だと小さなお祭りに呼ばれるような人たち。
もう大人と子供でしたね。
その人たちが言っていたのは、ハーモニーというのは合わせに行ってはいけない、それぞれが全力で歌っていて合うのがハーモニー。
それが出来ていないとただの合唱だよと。
これはゲーム開発にも言えることなんです。
自分と違う表現をする人に併せに行くのではなく、自分も全力の表現で対応していく。
その状態で調和させるのがハーモニーなのです。
■どっちもうまく使えて当たり前
ゲーム開発やっていたら感覚的に作業を進める人とと論理的に作業を進める人がいるのは当たり前です。
両方が力を発揮できるように仕事させるのは、ディレクターのあたりまえの仕事です。
どちらかにあわさせようなんて愚の骨頂ですよ。ディレクターとしての能力がないとしか言いようがない。
優秀な先人たちはみんなやっていることなんですがねえ。
なんでその下の人たちはそれがわかっていないことが多いのか…。