タツヤたちの少年時代の話は面白いですね。
今リアルタイムで少年の人たちにはわかりにくいかもしれませんが、私くらいの大人になると過去を振り返るというのはそれだけで面白い行為だったりします。
そういえばあの時自分は何をやっていて、何を考えていたかなと。
子供を育てるのってそれと似ていて、自分はどうだったかを思い出しながら楽しんでいます。
その振り返りがゲーム開発にいい形でフィードバックされているんですよね。
それは置いておいてタツヤたちの子供時代のお話に対しての感想、スタートです!
■銀とワタルの喧嘩
サターン購入で喧嘩ですか!
確かに当時はゲーム好きであれば、プレステよりサターンだったかも。
子供のころにサターンを買ってもらえたのであれば自慢したくなるのもわかります!
甥っ子がタツヤくらいの年に遊ばなくなったスーパーファミコンとソフトを上げたらすごく喜んでたんですよね。
型落ちでも十分うれしい、最新機であればなおさらでしょう。
いまでも小学生であればスーパーファミコンのゲームのほうが面白いとおもうのでは?と思っていたりします。
喧嘩をして仲直りしていますが、そういう経験があった人間関係は強いように思います。
そう考えると現在の喧嘩を嫌う事なかれ主義は、少し効率が悪いのかもですね。
■喧嘩の訓練
ゴン翁がけんかの仕方を教えていますが、こういった表現も賛否両論かと。
私個人としてはほぼ殴り合いのけんかとかしたことがないのですが、武道をやっていたので何をどこまでやっていいのかというのは理解できると思っています。
少なくともクリエーターであれば腕力で負けてどうしようもない、ということは経験しておいて損ではないと思います。
虐げられている人、という人に目を向けないコンテンツってそんなにないと思うんですよね。
男の世界は所詮腕っぷしの世界だ、というもは今のジェンダー界隈を踏まえると少し過激な発言ですね。
ただ社会に出てからの扱いというのは男女を問わず、能力の高低できまる世界だと思います。
ちょっと前にこんな記事が話題になっていました。
気が強いことが正義ではないですが、何かを引き受けることが出来る人というのは気が強いように見えるかと思います。
そうかんがえると「何かをやると引き受ける」という人に合わせるのは至極当然かと思うのですが。
能力があるかないかはやってみないと分からないことが多いです。
数多く挑戦している結果で身につく能力も多いです。
であれば気が強い人に合わせるのがいやだ、というのは私個人としては責任負いたくないけど文句は言いたいに聞こえるんですよね。
気が強くなくて責任感のある仕事を進めることが出来る人のモデルケースがあれば見てみたいのですが。
喧嘩の訓練というのは、そういったことを簡易的に学べる機会だとは思います。
絶対唯一の方法ではないですがね。
タツヤたちは割と早めに社会に出ることを求められる可能性があるので、こういった方法論をとったのではないでしょうか。
■ユウキとの出会い
ここで単行本3巻の話に繋がっていくわけですね。
チェイサーゲームを読んでいていまだよくわかっていないのが、社会人になってからのユウキが何を考えているか。
おそらくタツヤと対比されていくのだとは思いますが。
できる人がその会社でやれることをやり終わったらどうするのか?というような話になるのかなあと、勝手に想像していたりします。
さあタツヤ側の青年時代はどのように語られるのか!
次話も楽しみです!